昭和41年07月21日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持って行かれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すれば誰でも受けることができる。みてるということがない。」

 先の世までも持って行かれるのは、子孫までも残り、あの世にも持って行けれるというものは神徳、お互いひとつ信心さして頂くのでございますから、そういうおかげを頂く為に、おかげの目指しというものが、置かれなければいけない、ね。先の世までも持って行かれるもの、子孫にも残るものしかもそれは、信心すれば誰でも受ける事が出来るという、こゝで信心すればということは信者、御神縁を頂いておると、お参りをしておるという意味じゃないと思うんですね。
 神徳の、神徳を受けられるというか、誰でも受けられるのですけれど、信心を目指す者、おかげを目指す者と、大変な違いですからね。そこで私は思うのですけど、どう言う様な信心さして頂いたら、神徳が受けられるかと、一生懸命お参りをすると、修行をするという事だけでは、神徳は受けられないね。おかげを受けられても、神徳は一生懸命参ったからというて、おかげを受けられるのじゃない。
 常日頃頂いておる天地の御道理、天地の御恩徳ね、それを本当に悟らしてもらうという事は、ま、いわせれば親神様の思いを、分かると言う事だと思うですね。親神様の心を分かるという、分かるからどういう事になるかと申しますとです、その事を昨日、菊栄会でございましたが、皆んな降りて参りましてから、ま、色々話の中に、ひとつの事でおかげ頂いたら、後は応用問題だから、それがどのような事にでも応用出来れるだけの、信心が出来なきゃいけん。
 ですからその、応用しようという気持がでけると、あの計算をする気になると、一辺は習っとる事だから、すぐ分かるんだけれど、それをこんな事ではおかげ頂けれるんだけれど、こんな事にゃ自信があるんだけれど、ま、例えて言うなら、体の事でなら自信があるけれど、金銭の事でなら自信がないと ね、人間関係の事でなら、おかげに頂けれる道を、ちゃんと知ってるんだけれども、病気やら金銭的な問題になったら、出来ない事ではない、同じ事なんだから。
 久富正義さんが昨年でしたかね、自動車の事故、ま、それから三ケ月間位どうしてこういう事になったかという事を考えた、三ケ月目にようやく、その悟りが開けたという理由でしょうか最近では、ま、言うならばあの自動車事故が、私の上にはあるまいと言う位な心が開けてきた、と言う様な話を致しておりましたが、確かにそのおかげは頂いて行きよるんですけどもね、けれどももうそこにひとつのね、難儀と感じるような、ま どうしてこの様な事が、という事が三ケ月間でも思えたらもう徳にゃならんですね。
 それは、日頃信心の稽古をさして頂いておるから、これがおかげだったとこう分かる迄にはやっぱ時間が掛る、けれどもお徳を受けるというのはね、あのそんなものじゃないね、もその時即おかげを受ける事なんです。天地がまいうなら自由になると言う様な徳を、受ける為にはですね、やはりその事を私はおかげと、こりゃおかげじゃなとこう分からして貰えれる受け方、そういう受け方でなからなけり、ゃお徳は受けられませんよ。只皆んなが一生懸命。
 只そこんところ目指して、信心さして頂いておるというのなら、いいですよね、三ケ月もかかったのが二ケ月で、二ケ月もかかったのが一ケ月でもうね、一ケ月もかかったのがもう三日間でね、それが段々もう、即それを神愛として受けられるようになるという、そこにでなからなければ私は、本当のお徳は受けられないと思いますね。皆さんやつぱ、おかげは受けられますよ、ですから何時までもその事によって、苦しんでおるという事が、二ケ月も三ケ月も続く。
 いやひょっとするともっと続くかも知れませんけれど、後々になってみて、はぁあれがおかげじゃったと言う様な事に、ま気が付く位な事も御座いましょうけれどもですね、そのうもう本当にやはりその事がですね、ね、すぐ相済みません、例えば難儀な場合でもですよね、もうその場で相済みませんとか、有難う御座いますが出る、出らん限りですね、お徳にゃならんです。
 だから、そのおかげを頂けれる、そういう信心を目指してお互いが、信心さして頂かなければ ね、子孫までも、又あの世にも持つていけ、又は残しておけれるのは、神徳以外にゃ無いと、神徳じゃとこう仰る。神徳というのは信心をすれば、誰でも受ける事が出来ると、みてるという事が無い、えらい気易ういうてございますけれどですね、ですからここんところが私は、頂けれる信心ならして貰う時にですね、初めて御神徳というのは頂けれると、いわゆる、どういう事かというと。
 成程石橋先生が仰るように、神徳とは神の信用じゃと仰るです。どうですか三ケ月なら三ケ月間、迷うておる間にですね、どういう事があるか分かりませんよね、そしたらもいよいよ迷うたんなってしまいましょうけどね、迷わねばならないような事にぶつかっとるのに、又、迷わねばならない事が起ってご覧なさい、もう腰折りますよね、そこんところを神様がおかげ下さるから、いいようなもんだけど。
 だからそのおかげを頂いていくという事においては、なる程あの事を思えば、あの事を利用して、この応用していけば問題は、どの問題でも応用が出来るんですよ。けれどもそれを時間をかけてですね、出来るような事では、おかげは受けられてもです、しかしここだけでも大した事ではありますよね。本当いうとね、そっからおかげ頂けれる道が開けてくる、おかげを頂けれる道は、だからそう言う様な所を初めから。
 仲々先生はおりませんから、そういう事をひとつの、自分の信心はまだこれだけ。そのずれておるの、これだけが足りないんだなあと言う所をね、本気で見極めさしてもろうてですね、おかげを頂き、折角信心さして貰うのですから、この信心を進めてさえ行けばです、理屈の上には分かったんだから、ね。その時に叩かれる、相すいませんと、こう相すいませんが出るか、有難う御座いますが出るか。
 する所まで信心を高めて行けば、言わばそこまで行けば誰でも、お徳は受けられるというのであってですね、折角信心さして頂くんでございますから、そのあの世にも持って行ければ、子孫にも残る様なもの、そういうものを自分の心の中に、はぁこれが持って行けるんだなと、これが残しておけれるんだなと、自分のこれに、心に五体全体に感じられる位なですね、おかげを頂いたら、信心が楽しゅうなってくるのだと思いますね。
   どうぞ。